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エッセー 

仏教と水

青木 伸雄(あおき のぶお)
 近畿大学九州工学部講師
 (基礎科学センター)

1.まえがき

 

 釈迦がこの世を去って約2500年、我が国に仏教が伝来して約1450年近くの歳月がたってしまった。日本人の心のなかに、あるいは日常使われている言葉のなかに「安心」、「下品」、そして「お釈迦になる」、「水掛論」などと私達は知らずに仏教語を使っている。

 

 それ程、身近にありながらあまり知られていない「釈迦の教え」とは何か、現在の混迷、不確実な社会にあって「釈迦の教えと、その物の見方、考え方」と「水」との関係について学び、人間の生き方を考えてみたい。

 

 「南伝大蔵経」によると、釈迦は「困苦して、我が証得せる所も、今また何ぞ説くべけん、貧、瞋に悩まされたる人々は、この法を悟ること易からず、これを世流に逆い、微妙にして、甚深、難見、微細なれば、欲に着し、黒闇に覆われし者は、見るを得ず。かくの如く思択しつつある世尊の心は黙然を思い説法せんとは欲したまわりき」と述べており、本来は非常に奥行の深い、難しい教えである。

 

 苦学して、大学で電気、建築工学を学び、縁あって仏教学を学んだと云ったところで、その本質にふれることは到底不可能であり、あえて浅学の身をかえりみず仏教を学んでいる一人として、私なりの仏教と水について述べることにする。

 

 

2.仏教教典の水と管理者

 

 仏教には水の持つ本来のすばらしさを引用して解り易く説いている教えがある。

 

 三十四箇事書、天台本覚論にみる「水体本有具法円形故、入器時成方円」という如く「器の形で水の形が規制されるのではなく、本来水は四角や丸にこだわらない性質を有する。だから、こだわりを捨てることが大切である」と、説いている。

 

 また、究極の管理者像のあるべき姿として、正法眼藏「菩提薩唾四摂法」には「海の水を辞せざるは同事なり。是の故に能く水聚て海となるなり」と教えている。

 

 これは、清濁あわせて飲むからこそ大海となる、互いに協力して助け合うことが大切だと教えている。もっと具体的に考えてみると管理者に、

 

1)地獄の世界……言葉の通じない管理者。文句を云わずにやれといったらやれという世界。絶対服従の管理の世界。

 

2)人間の世界……言葉が通じる管理者。これは、こだわりを捨てれば通じ合える世界である。話してことが進められる世界。

 

3)釈迦の世界……心の管理、以心伝心の管理者の世界である。これは、理想の管理者像である、阿吽の呼吸で、上長の命令が部下に伝わる世界。

 

 3)の管理者になるためには、「水」の如く「こだわらず」、「清濁あわせのむ度量をもち」という教えにつながっている。  ただ、最近の新聞紙上のニュースと大いに異なる点は、

 

 「明主は人を厭わざるが故に、その衆を成す。人を厭わずといえども、賞罰なきにあらず、賞罰ありといえども、人を厭うことなし」と教えが広く、深く続いて説かれている点でこれと併せ実践することが重要である。

 

 空海「秘蔵記」に「水澄浄而照色相、然願風起波浪。波浪即作声。是説法之昔」という教えが述べられている。

 

 これは水がきれいで澄んでいる静かな状態では、色と形のあるものは、全てをそのままに照らしだすが、風によって波が立つと解らなくなる。しかし、静動へだたらず同じ水面であることを知るのが、悟りの境地であるということを云っているのである。

 

 だから、何時変化するか解らない水の表面と同様に人間の心の中も変化するので、同じ人間として相手を理解することが重要であると教えている管理の哲学である。

 

 

3.一水四見(一処四見)を知る

 

 人間の心の外に事物は存在しないという考え方の基本である。水を見て人間にとっては、河川の水であったり飲料水であるかも知れないが、魚にとっては住みかである。すなわち、心の有り方によって、事物のとらえ方が変化する。

 

 だから独断をせず、人の意見や考え方を聞く耳を持ちなさいという教えである。

 

 似たような教えに「心外無法」という教えがある。これは心の外に法は無いという考え方で、良いとか、悪いとか決めているのは貴方個人の一方的な考え方である。

 

 貴方のその考え方は、独断する程すぐれていますかと思慮と反省を求める教えである。

 

 この様に、仏教的思想の基本は常に、無分別智という分別をしないのではなく、人々の意見を聞き、事を進めることである、いわゆる無我がスタートの基本である。

 

 

4.仏教諭理学と水掛論を学ぶ

 

 一般に水掛論といえば、広辞苑では「ひでりの時に百姓が互いに白分の田へ水を引きこもうと」して争うことをさす。理屈を言い張って、果てしなく争うこと」とあるが、仏教では因明でいう相違決定のことである。

 

 いわゆる理由(因)の学間(明)で相違決定(二つの理由命題が、ともに相互に矛眉した二つの別々の主張命題を正当に決定して、相手の主張を論破することができない、不定因をさす)のことを水掛論といっている。

 

 最近の世の中、どうも無責任な水掛論が多すぎる気がしてならない。

 

 三界(欲望にとらわれた欲界。欲望は超越したが物質的条件にとらわれた色界。両方を超越、精神的条件のみの無色界をさす)は水の泡の如くはかない、困ったことである。

 

 ボツボツこれからの日本人は、自己中心主義ではなく、白我を捨て中道を歩くということを実践すべきだと考える。

 

 

5.あとがき

 

 九州の仏の里、篠栗新四国八十八ケ所の地に来て数年たってしまった。

 

 国立大学と私立大学の非常勤講師を勤めているが、学生の資質も大きく変った。

 

 技術者の一人として思うことは、人間社会から宗教的な考え方が無くなると、価値観が混乱

し倒錯の時代となる。

 

 先の原子力関連の事故もそうである。技術者として、正しい物の見方、考え方、そして行動があれば、起こらなかった事故である。

 

 「技術に良悪は無い、それを用いる人間の心にある。宗教的価値観のない最先端科学技術も、最先端科学のない如何なる宗教もそれは心のない形だけのものだ」と深く思うようになった。

 

 智育だけでなく、人間的魅力のある徳育の学生を育てている。そして、日本の将来を担う若者と、夢とロマンを共に考え学んでいる日々である。


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